「うっせぇわ」を聴いて思うこと

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syudouさん*1が作詞作曲し、シンガーのAdoさん*2が歌う「うっせぇわ」という曲。

初めて聴いたときの衝撃を何と表現すればいいのか。

圧倒的な歌唱力と刺激的な歌詞*3で、聴いているだけで攻撃力が上がりそうな感じです。
元気が出る曲というのとはまた違う、闘争心が掻き立てられる曲。

歌の内容は「うっせぇわ」特設ページ*4というところに以下のように記されています。

〈正しさとは 愚かさとは それが何か見せつけてやる〉ーー上司から散々、常識を押し付けられても勇猛果敢に抗っていく部下の姿が凝縮された『うっせぇわ』

確かに、小さなころから優等生として生きてきた"部下( 主人公)"が"上司"から押し付けられる「社会人じゃ当然のルール」とか「不文律最低限のマナー」といった常識に窮屈さを覚え、抗っている曲ともとらえられます。

同じような境遇で、同じような心境の人もいるのではないでしょうか。
はちみつ自身も共感する部分があります。

では「正しい」のは"部下である自分( 主人公)"で「愚か」なのは"上司"でしょうか。

はちみつ的には、違和感を感じる部分があります。
2番の歌詞にある以下の部分。

不平不満垂れて成れの果て
サディスティックに変貌する精神

主人公は'模範人間' なので抗いを暴力で示すのではなく言葉で示しますが、その結果止まれやしなくなり、上記の状態となります。

「成れの果て」*5という表現は、落ちぶれた様を表す表現でもあります。
 主人公が「正しい」のだとすれば、その変貌に「成れの果て」という言葉を使うでしょうか。どちらかというと主人公も「愚か」側なのかもと思ってしまうような言い方です。

整理のため、主人公の心境の変化を書いてみます。

1番の最初の歌詞では以下のように言っているので、反発とか抗いとは程遠い人生を歩んできているようです。(Youtubeのコメントでもちらほら見かけたのですが、「ギザギザハートの子守唄」の冒頭と対になるような歌詞ですよね)

ちっちゃな頃から優等生
気づいたら大人になっていた

'気づいたら大人になっていた' とあるので、特に優等生であることに疑問を抱かなかった、あるいはこのままでいいのかなと思いつつも行動は変えなかったと考えられます。

主人公自身もこう語っています。

ナイフの様な思考回路
持ち合わせる訳もなく

でも、従順に常識に従い生きてきた今、
何かが足りない、何故なのだろう、と混乱しています。

でも遊び足りない 何か足りない
困っちまうこれは誰かのせい
当てもなくただ混乱するエイデイ

この混乱の先に主人公は「それもそっか」と気づきを得る。
社会人じゃ当然のルールに抑圧されて窮屈な日々を生きていたんだと、
自分は自分だと、常識を「うっせぇわ」と一蹴してしまえと。

常識に縛られなくても健康だ。
常識に縛られ一切合切凡庸なあなたとは違う。

そんな風にサビでは
「押し付けるな、うるさい、自分には自分の考えがあるんだ」
という感じの言葉が続きます。

次の2番では、窮屈さに気づいた主人公の行動と変貌が語られます。私が違和感を感じた部分です。

つっても私模範人間
殴ったりするのはノーセンキュー
だったら言葉の銃口
その頭に突きつけて撃てば
マジヤバない?止まれやしない
不平不満垂れて成れの果て
サディスティックに変貌する精神

主人公は言葉での行動を選択しますが、不平不満を言うことに快感を覚え止まれなくなっていきます。結果として、精神もサディスティックに変貌。

その変貌を表すかのように、この後の歌詞は言葉がきつくなっていきます。
'くせぇ口塞げや限界です', '丸々と肉付いたその顔面にバツ' のような、正直ただの悪口ではと思うような言葉もあります。

また'絶対絶対現代の代弁者は私やろがい','私が俗にいう天才です' など、どこからその自信が湧いてきたのだと思うような言葉も出てきます。

ここまでの経緯をみると、与えられた常識や規律に従い優等生として生きてきた主人公が、大人になってからそういったものに縛られているから退屈なのだと気づき、押し付けるのをやめろと反発しだす。これまで従順に生きてきた反動からか、反発に快感を覚え不平不満が止まらなくなり、どんどん攻撃的になる。周囲に刃を向けることを覚え、自信満々(というよりもはや自信過剰)になっていく。

という感じでしょうか。はちみつの偏見満載の解釈なのですが、冷静になって歌詞をみるとこの主人公も愚かなのではないかと思うのです。

最後のこの歌詞。

アタシも大概だけど
どうだっていいぜ問題はナシ

 大概*6という言葉は色んな意味合いがあるようですが、ここでは「ありふれている」という意味でしょうか。

主人公自身、'絶対絶対現代の代弁者は私やろがい','私が俗にいう天才です' などと言いながらも、もとは優等生として生きてきており、ありふれていたとわかっている。
'どうだったいいぜ問題はナシ' は、でもそれは昔の話で今は違うんだ、変わったんだという気持ちの表れでしょうか。

結局、この主人公の変化は「正しさ」なんでしょうか。

この曲の冒頭で

正しさとは 愚かさとは それが何か見せつけてやる

と歌われますが、この曲に見せつけられた「正しさ」と「愚かさ」ってなんだったのでしょう。

はちみつは、この曲という存在自体が「正しさ」なのかなと思いました。
「うっせぇわ」の主人公のような気持ちを、楽曲という形で昇華させる、音楽で表現して見せるというのがある種の正しさなのかなと。

「うっせぇわ」の主人公に共感するひとはそれなりにいるとは思いますが、実際に主人公のように言葉の銃口を撃ちまくることは「愚かさ」なのかもしれません。

何というか、うっせぇわと思っているなら、キャンキャン吠えてないで実力で黙らせてしまえばいい。

を、作詞作曲のsyudouさんとシンガーのAdoさんが体現しているような、そんな感じがします。

まあ、考えすぎかもしれないですが。

グダグダと長文失礼しました。

3/17追記:「自分に気づく心理学」を読んでこの曲に対する印象が変わりました